130082005
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【橋本】がんということで,今のご専門につながっていますね.大学時代の思い出は何かありますか?【杉山】楽器を演奏したいと思って,Jazz研に入ったんですよ.アルトサックスをやって,何とか初心者として吹けるようにはなっていたんですが,部長から「マイルス・デイヴィスのトランペットは泣いているけど,お前のサックスはくしゃみしている」と言われて(笑),マネージャーになりました(図1).同級生がバンドを組んでいたので,機材の音響のセッティングなどをやって大学祭に参加したりして,結構楽しかったですね.【橋本】勉強もされましたか?【杉山】まあまあまじめにやったと思います.ただ嫌いなものはあまりやらないけれども,好きなものはとことんやるタイプでした.学生時代に好きだったのは4つあって,1つは解剖学や病理学,いわゆる形態学,2つ目が生化学で,シグナル伝達とかTCAサイクルといったものです.3つ目は神経系,救急にも興味がありました.逆に,生理学は苦手で,今でもてんかんとか脳波・心電図は全然ダメです.【橋本】神経系で形態学で救急といったら必然的に脳神経外科,ということですか?【杉山】そんなに簡単ではなく,いろいろ紆余曲折がありました.とにかく病理がいちばん好きで,病理学教室によく遊びに行っていたんです.当時講師だった井内康輝先生先生(後の広島大学病理学第二講座教授)と波長が合って,いろいろなことを教えていただきました.今もご指導いただいています.私は顕微鏡をのぞくのが楽しくて,HE染色を見るのも全然苦ではありませんでした.第二病理学教室は肺がんと乳がんが専門だったので,そのあたりの標本は学生のときすでにたくさん見て,目は肥えていました. そのまま病理学教室に入るべきだったのかもしれませんが,卒業時,井内先生がアメリカ留学中で,今みたいに簡単に連絡ができる時代ではなかったので,病理学には入りませんでした.基礎に飛び込む勇気がなかったのかもしれません.それで,病理診断がおもしろそうな臨床部門はと考えると,脳神経外科ともう一つは産婦人科でした.産婦人科の病理やoncologyはおもしろかったんですけれども,致命的なことにどうも分娩が苦手だったんですね.それで,脳神経外科を選んだということになります(図2).図2前列:患者さん家族の横に栗栖薫先生.後列左より有田和徳先生,杉山先生,岡村達憲先生.2001年,広島大学脳神経外科の同僚と図1留学時に撮影したもの.Monteoreの近くにある.NY・ウッドローン墓地にあるマイルス・デイヴィスのお墓脳神経外科速報 vol.30 no.5 2020.5. 463

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