130082011
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るかどうか試してみたい」というアスリートのような動機で,東大医学部を受験先に選んだように記憶しています.このため大学受験は,前期は東大医学部,後期は東大工学部に出願していました.【津本】先生の勉強法は?【庄島】特別な対策はしていませんが,様々な問題集や模試で解けない問題があると悔しかったので,次には解けるようにと勉強していました.カテーテル治療では,パズルのように治療器具や治療戦略を組み合わせることで,治療が可能になることがあります.解けない問題があると夜も寝ずに次に解けるように調査をするという点は,受験勉強とカテーテル治療で通じるところがあるように思います.【津本】大学時代,特に打ち込まれたことは何かありますか?【庄島】はじめの4年間は授業にはあまり出席しませんでしたが,図書館に通って,興味がある本を読んで勉強していました.『ブラック・ジャック』は何度も読み返しましたね.授業は聞かず,自分の関心の赴くまま知識を習得したというのは中高時代と同じです.【津本】なるほど.では脳神経外科を目指した理由はなぜですか?【庄島】『ブラック・ジャック』じゃないですが,派手なイメージに惹かれて,脳神経外科か心臓外科を候補として考えていました.最終的に,脳神経外科の先生方のとんがった雰囲気に惹かれたのと,NHKで放送されていた「脳と心」という特集番組に感銘を受けたのが影響して,脳神経外科に決めました.【津本】それで東大脳神経外科に入局されたのですが,同期は何人でしたか?【庄島】6人で入局し,4人残っています.そのうちの1人は東大同期の丸山啓介先生(現・杏林大学)で,彼は学生時代から「丸山先生」と呼ばれる秀才でした.同期で一番早くクリッピングを行い,症例報告も一番早く書いていました.【津本】入局当時の印象的な出来事があれば教えてください.【庄島】当時はMRIの新しい撮像法が現れてきた時期で,見たことのない画像があったらオーベンの先生たちから「放射線科の先生に聞きに行ってこい」と言われて,足繁く放射線科に通っていました.そのおかげで,ずいぶんと画像に関する知識が増え,興味を持つようになったように思います.この画像に対する知識と関心が,その後,CFD解析を研究分野に選ぶ意思決定にもつながっているかも知れません.【津本】なるほど.放射線科の先生方とのつながりができたことも,その後の血管内治療と関係してきますか?【庄島】そうですね.卒後2年目のときの症例をよく覚えています.主幹動脈閉塞による脳梗塞の転帰が不良であることがわかり始めた時期で,脳カテーテル治療の衝撃2脳神経外科速報 vol.30 no.11 2020.11. 1179

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