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医 制日本で初めての医療衛生に関する包括的な法律で,76条からなる.欧米の近代的な諸制度がモデルになっている.(1)明治から昭和初期 わが国では,1872(明治5)年に文部省に医務課(医務局)が設置された.1874(明治7)年には公衆衛生,医務,薬務,医学教育などを定めた総合的な法律「医制」が発布され,近代公衆衛生行政が始まった.翌年には,文部省から内務省に衛生行政が移管された.当時は,開国によって海外との交流が急激に始まったこともあり,コレラ,ペスト,天然痘などの伝染病が繰り返し流行していた.したがって,伝染病対策が重視され,感染予防のための規則を守らせることに重点が置かれた.また,明治初期において約3,500万人だった人口が増加し始め,都市への人口集中が著しくなってきた.劣悪な都市部の生活環境の改善が急務となり,1900(明治33)年には,下水道法,飲食物取締法などが公布された.さらに,貧富の差の拡大によって社会が不安定になるのを防ぐため,工場法,健康保険法を制定するなど社会施策も打ち出された. 明治末期から昭和初期にかけては,公衆衛生政策においても,軍国主義の傾向が強まり,兵力増強の観点から,母子衛生,体力強化,結核対策に力が注がれた.1937(昭和12)年の保健所法の公布,翌年の厚生省(当時)の設置もこの一環であった.この時期は,結核,性病などの慢性感染症も猛威を振るい,特に結核は,長い間わが国の死因の第1位であった.また,精神疾患患者の処遇が社会問題となり,1919(大正8)年には精神病院法が公布された.(2)戦後から高度成長期 第二次世界大戦後,GHQ(連合国総司令部)のサムス准じゅん将しょうのイニシアティブによって,わが国の公衆衛生は再出発した.新しい日本国憲法第25条には,「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する.国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定められ,公衆衛生行政もそれまでの取り締まり中心から指導中心へと生まれ変わった. 戦後しばらくは感染症対策や生活環境対策,母子保健対策が公衆衛生の重要課題であったが,行政・国民のさまざまな努力,医学・医療の発達,インフラストラクチャーの整備,生活水準の向上などによって,わが国の健康水準はめざましく改善した.また戦後,1947(昭和22)年から3年間は,年間出生数が260万人を超え,ベビーブームと呼ばれたが,その後,出生率は低下していった. 戦後,1947(昭和22)年以降の数年間に,保健所法(改正),食品衛生法,予防接種法,性病予防法,精神衛生法など,今日につながる重要な公衆衛生関連の法律が制定されていった. 1960年代以降,公衆衛生の課題は,脳血管疾患(脳卒中),心疾患(心筋梗塞),悪性新生物(がん)など,いわゆる成人病対策に移った.これは,これら三疾患による死亡が,全死亡の半数以上を占めるようになったからである.対策の中心は,住民健診・がん検診などによる二次予防と食生活改善などの一次予防であった. また,1960〜70年代にかけて,水みな俣また病(有機水銀),イタイイタイ病(カドミウム), 2日本の公衆衛生の歴史4)厚生省戦時下の1938(昭和13)年,社会福祉,社会保障,公衆衛生の向上および増進を図ることを目的に設立された.1947(昭和22)年に労働行政に関わる機関は労働省として分離されたが,2001(平成13)年の省庁再編により合併.厚生労働省となった.171公衆衛生の歴史
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