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 一例を挙げよう. 高橋さんは建設の仕事から帰ると熱いお風呂に入り,晩酌して心身の疲労を癒し,眠ることを大事な生活習慣としていた.彼は,「風呂に入って晩酌してよく眠ること,これが私の健康法だ」と,自分の健康に自信をもっていた.彼にとっては,このライフスタイルの継続が,健康維持のためのセルフケアにほかならない.しかし彼は,自覚症状がないにもかかわらず,職場の健康診断で肝機能異常と高血圧を指摘された.そして,医師から,このままではアルコール性肝炎になったり脳出血を起こしたりする危険があると,小冊子を渡された.その小冊子には,アルコールを控えることの重要性や,急激な血圧変動を避けるために塩分を控え,風呂はぬるま湯が望ましいと説かれていた.高橋さんにとって,主観的な健康維持に大切なセルフケアが,客観的な健康の指標によって否定されたのである.高橋さんは,行動の変容を迫られた.その後,彼は,晩酌をやめなかったが,つまみを控え減塩を試みた.その結果,客観的健康指標でも健康だとみなされれば,高橋さんのセルフケアは成功したと評価される.しかし,もし反対にアルコール性肝炎や脳出血などを発症すれば,セルフケア不足とみなされ,健康障害についても自己責任と受け止めざるを得なくなる. このように,成人にとって健康であるということは,常に自分自身の健康観と客観的な健康指標(特に医学的指標)との一致や不一致を吟味し,バランスをとりながらセルフケアを継続することであるといえよう.疾病自己責任論健康・病気の原因と責任を個人個人に求める考え方で,一人ひとりの努力によって健康を守ることができるというポジティブな意味もあるが,むしろ,社会的に健康を保障することを縮小しようとする口実として使われるなど,問題も多い.(1)危機という言葉 看護学では,自殺が危惧されるような心理的危機についての文献が多数ある.一方,医学では,生命危機という言葉が多用される. 広辞苑によれば,危機は,「大変なことになるかもしれないあやうい時や場合,危険な状態」とされる.英語で危機に相当する言葉は crisis という語であり,分離する(to separate)を意味するギリシア語のクリシス(krisis)に由来している.生命の危機は,まさに生死の分かれ目であり,生と死とを分離する状態である. 米国で,保健医療従事者に多用されている Mosby’s Dictionary によれば,crisis とは,“a transition for better or worse in the course of disease,usually indicated by a marked change in the intensity of signs and symptoms.” 2)(疾病の経過の中で,状態がよくなるか悪くなるかの移行期であり,通常,強烈な症状や徴候によって明らかな変化が示される)とある.生命の危機だけではなく,疾病がよくなるか悪くなるかの瀬戸際といった意味である. ほかにも,経営危機,経済危機などというように,会社や国など人間の集団が何らかの危険な状態に陥るときにも用いられている.戦争や国際紛争が起こりそうな状況は,まさに,社会の危機である. すなわち,危機は,個人の危機を指す場合と,集団の危機を指す場合とがあり,よくなるか悪くなるかの分岐となる移行期を指し,放っておくと悪いほうに傾きかねない状況を示す概念である (図1.1-1). 2成人にとっての危機とは151健康危機状況にある成人の理解 1…健康危機状況にある成人の理解

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