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3第1章新しい総論学は病気をある部分に生じた異常機能ととらえ,病変の除去や機能の改善を目指すのに対して,看護は一部の臓器や組織に現れる病変だけに眼を向けず,人の生命力全体の動きや状況を読み取る」とあり,キュア中心からケア中心へという考え方は,2035年までに必要な保健医療のパラダイムシフトの一つとされています. 私を含む古い世代の脳神経外科医は困難な病気に立ち向かいながら,文字通り心血を注いで患者さんの病気をキュアさせるために立ち向かってきました.しかし「生活の質や死の質を尊重する」という考え方から,以前のように「病気が治せればそれで終わり,重大な障害が残ってもあとは知らない」という考え方ははるか昔に通用しなくなっています. 医療は社会の超高齢化の中で,ケアの物語・価値観の中に包摂されようとしています.梶田昭は『医学の歴史』3)で,アメリカの結核療養所運動の先駆者トルードーに患者たちが捧げた言葉「時に癒やし,しばしば救い,つねに慰む」を紹介し,「できることは『悩み』に対応する『慰め』なのに,たまにしかできない『癒し』medeor(⇒medicine)を看板に掲げたことが,医学の宿命的つらさである」と著述しています. 癒しとは治癒(キュア)であり,それを包括する広い「慰む」にあたる領域がケアであるといえます.ケアモデルでは病気も含めより広い範囲で人間の生活を包摂するものですから,もともとキュアの医学がケアの一部分に含まれることは自然です.しかしケアの役割がより強調されると,キュアの医学の持つ先進性や先鋭さが薄れてしまいます.ケア中心という立場に舵を切ったのは,高齢化社会の中で生活の質,死の質などという聞こえがいい言葉で,単価の低い社会保障を実現しようとしているだけなのかもしれません.むしろ最近の先端技術は,病気を治すということよりも,不老不死,種よりも個の保存の欲求に進んでいるような気がします.本当に金と権力のある人は,ケアの外側の世界に出ていくための技術に投資しているという話も聞こえてきます. 話は飛びましたが,ケア中心の立場から,生活の質・死の質が強調される中で,患者さんはどういった治療を含めた病気への向き合い方を望むのでしょうか.生活の質や死の質というのは誰がどのような尺度で評価するのでしょうか. 生活の質は最低限の衣食住が保障されてしまうと,その上のところは客観的にも主観的にも測定することが困難なのだそうです.また,フランスの哲学者ラカンによれば「人は他者の欲望を欲望する」のだそうです.身近な例ではありますが,ふつうの人が量販店などで電化製品の購入決定の判断基準にするのは,製品の性能や価格ではなく,どの製品がよく売れているかだそうです.私も妻と一緒にオーブンレンジを買いに行ったときに,まったく指摘どおりの行動を取ってしまいましたが,お恥ずかしいかぎりです.病気になったときも,結局においては知り合いの人がそうしたから,有名人がこうしたから,などということが治療選択のカギになっていると聞いたことがありますよね. それでも自分はいろいろなことを自己決定していると考えがちですが,脳科学の最新の研究では,右か左かどちらかのスイッチを自由に押すように言われているとき,その人の決定を示す脳内の神経活動は本人が選択を自覚する数百ミリ秒から数秒前に始まることがわかっており,自由意志の存在に疑問が投げかけられています.自己決定はできるのか?

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