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4 それはさておき実際の現場では,われわれには本当に自分で意思決定などできないことが多いとも言います.一般の患者さんは医療に対する知識がないので当たり前ですが,医学のことを知っている私でも,健康を損なったときに賢明な判断ができるかどうかは自信がありません.医学の知識は巷に満ちあふれていますが,真偽がわからないネット記事や,売らんかな戦略が見え見えの書物で得られた記事だけで十分な知識など得られるわけがありません.医師は医学教育を6年間みっちり受けて,国家試験を通って,さらにその後も勉強し続けているわけで,その上に培ってきた知識を,一般の人に限られた時間の中で十分な理解をしてもらうのはどう考えても不可能です.そもそもわれわれの提示する,自然科学的手法を使って導き出されたエビデンスに則った説明はおおむね共感を欠いたものになってしまいますし,ネットの記事は直感的で扇情的で腑に落ちやすくて聞き心地だけはいいのですから,かなうわけがありません.更には自己決定に困難を抱える人々がケアの対象になり,自分の生活課題をうまく処理できないことでケアニーズが顕在化するとも言われています. 自己決定に責任を持てない人が,不安を募らせることも多いのでしょう.健康不安にかられて,「高度な検査をしてほしい.そのうえでなんともないと言ってほしい」という理由で外来に訪れる患者さんも多くいます.最近では,自分ではなんともないと思っていても,周りの人が検査を強要してきます.インフルエンザの罹患・治癒証明などは代表的なものですが,自己決定できない,自分では責任を取らない態度は確実に医療へ悪影響を及ぼしていると思います.自己責任について声高に主張する人も多いですが,自分では責任を取りたくないと思っている人のほうが多いのではないでしょうか.そうなるとパターナリズム的に誰かが集団を家長的に先導して,かつその責任を引き受けるのも悪いことばかりではないかもしれません. こういった人間の性向を踏まえると,最近言われているリバタリアン・パターナリズムという考え方には合理性があります.これは,望ましい方向性が明らかな場合に,その選択肢を選びやすくする設計をしつつも,それを選択したくない場合,その選択を拒絶する自由を与えられるべきであるという考え方です.エビデンスに基づいてはいるものの,確率の話では納得が得られないので,利用可能性ヒューリスティックと言われる,エピソードや体験談,感情移入しやすい経験談に過ぎない物語をうまく用いることで,十分な納得を得てもらいながら標準治療を行うことが可能になります.しかしこの使い方を誤ると,謀略的に悪いほうへ誘導することも可能です.いくばくかの善意とお金儲けのために「これは個人の感想です」と付け加えられた広告が世の中に広く跳梁跋扈している現実を見ても,うまく使うことは難しいのかもしれません. 物語に基づいた医療(Nナラティブarrative-bベイストased Mメディスンedicine:NBM)が最近強調されています.ナラティブ(物語)は,患者さんが対話を通じて語る病気になった理由や経緯,病気について今どのように考えているかなどの「物語」から,医師は病気の背景や人間関係を理解し,患者さんの抱えている問題に対して全人的(身体的,精神・心理的,社会的)にアプローチしていこうとする臨床手法で,ケアモデルを大きくカバー治療選択のうえでのナラティブ

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